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アジア開発銀行50周年記念横浜総会を覗いて

2017-05-31

三多摩支部国際部
櫛田 正昭

<50周年記念総会を覗く>
5月のゴールデンウィークの間に、横浜でアジア開発銀行(ASIAN DEVELOPMENT BANK。以下ADBと略す)の第50回年次総会が開催されました。日本開催は、1966年の東京での創立総会、20回目の大阪総会、40回目の京都総会に次いで4回目です。加盟国・地域の財務大臣や中央銀行総裁、金融機関・民間企業・コンサルタント会社等代表等約4,000人が参加したとのことです。50回目の記念総会でもあり、後で述べるアジアインフラ投資銀行(ASIAN INFRASTRUCTURE INVESTMENT BANK。以下AIIBと略す)のこともあり、日本経済新聞をはじめマスコミで連日報道されておりましたので、三多摩支部の皆様の中にも、お気付きになられた方もいらっしゃるかと思います。その総会をチラッと覗いてきました。
実は、私は40年ほど前に、当時勤務していた金融機関から出向の形で3年4カ月ほどADBに在籍していたことがあるのです。総会の時には、恒例で、スタッフOB同窓会のパーティーが開かれるのですが、今回は同窓会日本支部がホスト役を行うので出席しないかとの呼びかけがあり、冥土の旅のお土産にしようかとも思い、出かけて行ったのでした。結果的には、外国人OBの顔と名前はあまり一致せず、同時代に在籍した日本人同僚と旧交を温めたということになりました。ただ鏡割りをしたり、お客の外国人旧同僚には結構喜んで貰ったようです。総会では、多くのの会議、セミナー、イベント、展示、レセプションが並行して開かれています。時間の許す範囲で2つほど傍聴しましたが、英語力も錆びついており、普段からの勉強不足がたたり、不消化のままで部屋を後にした次第でした。

<ADBについて>
今次総会日本語版パンフレットには、「ADBは、アジア・太平洋地域における経済成長及び経済協力を助長し、開発途上加盟国・地域の経済発展に貢献することを目的とした国際開発金融機関です。貧困のないアジア・太平洋地域をめざし、融資・技術協力・出資などを行っています。」と記されています。
ADBは、日本が高度経済成長を遂げつつあった1960年代初頭に構想され、1966年に創立されました。既に、世界銀行などにより、米国主導で開発途上国援助がおこなわれていましたが、ADBは、「アジア・太平洋地域の平和と経済発展を日本が(米国との連携の上)主導権を持ち実現し、日本のアジアでの役割を果たしていこうとする理想」のもと立ち上げられたものです。途上国援助は所謂バイ(政府開発援助(ODA。Official Development Assistance)による2国間援助)とマルチ(国際支援機関を通して行われる多国間援助)で行われますが、日本はマルチの場でも主導権を持って開発途上国支援に当たることになったのです。
ADBの話になるといつも出る本店所在地ですが、これは加盟国の投票で、フィリピンのマニラに決まりました。東京は1票差で敗れたとのことです。結果論ですが、英語のできるサポーティングスタッフを確保するのは、東京では相当難しかったのではないかと思われます。総裁のポジションは初代の渡辺武氏から9代目中尾現総裁まで日本人が就任しています(大蔵/財務省または日銀ご出身)。
当初は、初代渡辺武総裁が掲げた「アジアの開発途上国のファミリードクター」として、手の届きにくいところこそ援助していく方針が打ち出されています。私が勤務したADBはその初期の時期にあたります。その後の50年幾多の難関を乗り越え、下記に見るように発展してきました。

<ADB概況(2016年度末)>
ADBの加盟国は当初31カ国でした。所謂域内国19カ国、これにアメリカ、ドイツなどの域外国12カ国です。徐々に増加し現在は67カ国、(域内国48カ国、域外国19カ国)と大きく増加しました。うち5大加盟国(( )内は出資比率)は、日本(15.7%)、アメリカ(15.6%)、中国(6.5%)、インド(6.4%)、オーストラリア(5.8%)となっています。
中国が加盟したのは、中国での自由化が進んだ1986年です。なお中国は現在でも開発途上国として、資金借入を行っています。
ADBは金融機関ですから、融資・投資のための資金を確保しなければなりません。そのために加盟国からの増資受入、債券発行、借入等を行っています。何をするにも信用がなければ、資金調達は難しくなります。そこで、適切な審査をして、不良債権を作らないこと、コンプライアンスが順守され、ガバナンスの効いた経営が行われていることが必須です。ADBの債権は格付機関から高い格付を取っています。
ADBの資金調達は、通常資本財源(OCR)、アジア開発基金(ADF)、その他特別基金の3つにわかれて管理されてきましたが、最近勘定は合体して運用されるようになりました。この改革により、より多額の融資が可能となるとのことです。
融資・技術援助は順調に増加してきました。ADBの最近の業務を2016年の年次報告で見てみました。
2016 年、ADB の業務総額は 317億ドルと報告されています。 175億ドルがADB の通常資本財源(OCR)、アジア開発基金(ADF)およびその他の特別基金から供与されたソブリンおよびノンソブリン・プロジェクトの承認額、1億6,900万ドルが特別基金による技術協力の額、141億ドルが協調融資パートナーより供与された額です。 いずれも前年から大きく伸びています。175億ドルの融資等のうち25億ドルは、民間セクター(ノンソヴリン)に対するものです。協調融資の伸びには目を見張らされます。
2016年の承認額のセクター別内訳は次のようになっています。
<エネルギー:26%、交通:22%、公共投資:13%、金融:11%、水道・都市インフラ:9%、農業・天然資源:6%、教育:5%>
投資分野は多岐にわたり、やはり電力開発、道路建設等インフラ関連が重要課題になっていることがうかがわれます。設立当初の、貧困対策、食糧確保がまず要請された時代から変化が見られます。途上国の今後のインフラ投資需要は、ADBの試算によれば2030年までに計26兆ドルとされており、今後先進諸国のODA、各支援機関の開発援助の継続的な供与、協調融資が求められています。
職員数は、今や専門職員約1,110人(うち日本人約150人)、補助職員1,980人合計3,090人と増加しています。

<アジアインフラ投資銀行(AIIB)>
ADBに関連し、気になるのはAIIBです。
ADB総会の直後(5月14日及び15日)、北京で「国際協力サミットフォラム」が中国の主催で大々的に開催(130か国の代表団が参加)され、「一帯一路」という言葉が新聞・テレビでも大きく報道されましたので、みなさんの認識も新しいところかと思います。「一帯一路」(OBOR。One Belt, One Road)とは2014年以降中国の習近平国家主席が提唱する経済圏構想で、中国西部と中央アジア・欧州を結ぶ「シルクロード経済帯」(一帯)と、中国沿岸部と東南アジア・インド・アラビア半島・アフリカ東を結ぶ「21世紀海上シルクロード」(一路)の2つの地域でインフラ整備および経済・貿易関係を促進するというものです。中国が当該地域で強大なイニシアティブを発揮しようとする意図が透けて(いや明確に?)見えますね。
このインフラ投資の資金を賄うツールにしようとするのがAIIBで、2015年12月に中国主導のもとで正式に発足しました。参加国については大いに話題になりましたが、結局2017年5月には77か国を数え、ADBの60か国を超えることになっています(G7で未参加は日・米両国のみ)。両国は、AIIBのガバナンスのあり方(中国の拒否権等)、投融資基準のあり方(健全な銀行経営の在り方)等を問題にして参加を見合わせていますが、中国の主導権、ADBとの兼ね合い、効率的資金負担等を考えると難しい判断となっています。最近参加を容認する意見も報道されています(黒田前ADB総裁、二階自民党幹事長等)し、自国第1主義を唱えるトランプ大統領になったアメリカの判断(の変更?)も気になるところです。中に入って発言していくのも一つの道かもしれません。
AIIBはまだ発足まもなく実績はさほど上がってはいませんが、既に世銀・ADBとの協調融資、単独融資を承認実行に移しており、やがて投融資の額も大きくなっていくことが予想されます。その時健全な開発支援機関となり、真に地域に貢献する開発金融機関になっていることが望まれます。

<おまけ・・・古い記憶>
最後にADB時代の思い出を少し。もう40年も前の話ですから、記憶は遠くなりましたが、3点述べさせていただきます。
①最初の出張はベトナム戦争下のサイゴン
1974年9月、ADB本店のあるマニラに赴任しました。開発銀行課というセクションのファイナンシャルアナリストというポジションの辞令を貰いました。その第1号案件が当時の南ベトナムのある開発銀行に対する融資案件で、すぐにサイゴンに出張ということになりました。まだベトナム戦争は終結しておらず、ドンパチが聞こえてくるホテルに宿泊し、昼は役所・銀行事務所に出かけてヒヤリング、夜はホテルでミッションメンバーとディスカッションといった具合です。何とか、紛争には巻き込まれずマニラに帰れましたが、怖い思いをしました。報告書・稟議書を書き、理事会を通してやっと案件承認に持ち込んだのですが、融資契約が発効する前に、サイゴンが陥落(1975年4月)し、借り手がいなくなりました。

②あの時代も中小企業支援をしていた!
各国開発銀行援助融資の仕組みは、加盟開発途上国の開発銀行にややロットの大きい融資を行い、先方開発銀行は、その融資を数十件ぐらいに小口にし(サブローンと呼んでいました)、地元中小企業に転貸するというものです。先方開発銀行はほとんどノウハウ・経験がありませんので、貸出業務の仕組みをアドバイスすることから始まり、案件開拓方法・転貸先の案件の評価・判断の方法などを助言します。一旦開発銀行向け融資が承認されると、サブローンの実行申請書がマニラのADB本店に送付されてくるので、内容を吟味し、承認・却下の判断をし、コメントをつけて返すということになります。勿論、メールもない時代で、紙の文書をやりとりする時間のかかる仕事でした。サブローンの先は、木工所だったり、サンダル製造工場だったり、繊維工場であったりしましたが、ADBの資金が地場の中小企業に現実に流れていくのを実感したものです。

③いま思うと相当リスクの高い日々。支え合いで凌ぐ。
マニラでは、所謂「ヴィレッジ」という塀に囲まれた地域に居住しました。当時は安全対策として必須だったと思います。自動車は必ず運転手にさせることも強く指導されていました。公共交通手段のジープニーにも原則乗りませんでした。水道は圧が低く、水に土が混じり飲めません。雨(スコール)が降ると下水道はすぐに溢れ返りました。メイド・運転手を雇わなければならないのですが、なかなか信用できません。家の中に分けのわからない人間がいるのは慣れないことでした。現実に、最初雇った運転手が泥棒の仲間だったりしました。そんな中で、家族をマニラにおいての海外(アフガニスタンとか!)出張は当たり前のことでした。出張先でお腹を壊し、下痢が止まらず、コレラではないかと医者に言われたこともありました。
頼りになるのは、ADBの同僚・仲間で、皆で助けあった日々でした。

以 上