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“地球はとっても面白い”!

2021-12-08

“地球はとっても面白い”!

“グローバルビジネスはやめられな~い♪♪、止まらな~い♪♪”

三多摩支部 国際部
伊谷 幸彦

 IMFが予測する世界のGDP2021年に占める日本のGDP比は5.73%。20年前の2001年度(12.97%)に比べると半分以下に低下しています。この割合は今後10年間で更に低下する見通しですから、やはりビジネスは“海外を目指せ!”、“国際化を進めよ!”という事になるのでしょうが、これから海外進出を始めようという中小企業にとっては海外進出はそう簡単な事ではないかと思います。そこで、ことわざにある“好きこそ物の上手なれ”ではないですが、著者は自らの実体験から、海外に先ずは興味を持ち、実際に現地に行ってみて感動し、地球の面白さを体感する事から始めてみる。そして、四苦八苦しながらも異文化環境の中で最初の難関(例えば、最初の1台の自社製品の販売に成功)を克服した時の達成感(とても感激します)を忘れずに、この繰り返しを継続する事がやがて中小企業にとって国際化への真の力となりグローバルビジネスを成功に導くエンジンとなるのではないかと感じています。

1)自己紹介
私は、大学生時代に海外初体験のネパール、インドから始まり、今までにアジア、ヨーロッパ、アフリカ、豪州、北南米地域を含む計58カ国・地域の渡航歴があります。また、仕事では主に外資系企業で日本進出、日本市場開拓を推進し、日系企業では、海外市場拡大、国際化の深化に従事してきました。そのようなキャリアから、結果としてシンガポール在住が17年、35年超のクロスカルチャー(国籍、民族、宗教などの文化的背景が異なるメンバーによって構成される多様性に富んだ状態)環境での業務経験があります。シンガポール永住権も取得しました。毒に侵されたように世界との付き合いをやめることができないでいます。

2)世界との出会い
私の初めての海外体験は大学1年の夏休みに一月ほどバックパック旅で滞在したネパール、インドです。大学に入学し,親しくなったM(後に外交官として外務省に勤務)が”伊谷、俺夏休みに一人で南インドに行くことにした“と言うので、”へー面白そうだね、それじゃ俺も一人でネパールへ行ってヒマラヤでも見てくるよ。“と軽い気持ちで応じると、Mが”そうか、それじゃーデリーのインド門で会おうぜ“と言うことになりました。旅先では場所こそ異なりますが、Mも私も(安宿で)南京虫の餌食になり、現地人が飲む水だから大丈夫だとの思いから下痢、発熱で散々な目にあった後に、インドの喧騒をかき分けデリーのインド門で再会した時は感動ものでした。
ネパール、インドでの体験は私にとってとても新鮮でした。特に牧歌的なのんびりとしたネパールからローカルバスを乗り継いで陸路入ったインドは想像を絶する別世界でした。汽車の屋根まで満杯の人また人、独特で強烈な体臭,何回”No thanks”と言っても何時までもまとわりつく多数の物売り、物乞い。大通りをのし歩く像の群れ、聖なるガンジス川のほとりでの死者の”直火焼き“火葬風景、この世のものとは思えないほど美しいタージマハル廟、幻想的なシタールの音色………。たちどころにインドが好きになりました。



インドの汽車:屋根まで満杯の人また人(1977年8月撮影)

3)休学して世界との更なる遭遇

異文化に圧倒されたネパール・インド行から帰国すると、もっと世界が見たくなりました。東京商船大学(現東京海洋大学)に入学したのは、子供の頃から海と船が大好きで、大人になったら大型外航客船の船長に単純になりたかったためです。世界を体験して、もっと面白いやりがいのある仕事は無いか、それを見つけるためにもっと自身の視野を広げよう。そうだ、“いっそ地球を一周してみよう”という事になりました。大学の二年次は、ほとんど地球一周行のためのアルバイトに明け暮れ、学業の方は何とか三年次に進級できるギリギリの成績でした。
二年次が終了すると、早速1年間の休学届を出して、4月にアメリカに旅立ちました。この間、当時はスマートフォンもインターネットも無い時代でしたから、母親は1年に及ぶ私の世界放浪の旅をとても心配していました。最終的には、父親の“元気で行ってこい”の一言でこのチャレンジが実現しました。
アメリカロサンゼルスからローカル列車、バス、ヒッチハイクで南下し、メキシコ,ベリーセ、グアテマラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイの13カ国で気ままな旅を続けていると、あっと言う間に1年が経ち、当初の地球一周計画が途中でとん挫しました。それでも、中南米では新しい貴重な異文化体験に数多く遭遇する事が出来ました。
中南米の人は概して陽気で親切です。当時日本人が珍しかったこともあるかと思いますが、ともかく街を歩いていると誰からともなく声をかけられます。老若男女を問わず。“普通の“若い女性からも笑顔ででよく声をかけられたので、”俺ってもてるなー“などと勝手に勘違いしていました。少し親しくなると、”すぐ家に来て飯でも食っていけ“と言うことになります。貧乏旅でしたので、よくご馳走になりました。一方で、中南米の人は家族、仲間をとても大事にし、人生を共に目一杯楽しむ感覚がとても強いです。
アルゼンチンからウルグアイの首都モンテビデオへ海路入国した際は、こんな事件が起こりました。入国審査場での出来事です。他の乗船客はほとんどフリーパスなのに、何故か私だけが突然パスポートを取り上げられ、警察署に“連行”される事になりました。警察署に到着すると頑強な刑事5人に取り囲まれ、”何の目的で入国する?“、”職業は?“、これからどこに行く?”等矢継ぎ早に尋問を受けました。後で分った事ですが、当時日本赤軍の国際的なテロ活動が活発で、クアラルンプール事件(1975年8月)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年9月)の生々しい衝撃の記憶も新しく、日本人の若者(特に私のようなバックパッカー)には現地の警察が目を光らせていたようです。もちろん法に触れるような事は何もしていません。尋問を受ける部屋のドアがやたらと厚く、10cmぐらいはあったと未だに記憶しています。幸いスペイン語もかなり流暢に話せるほどとなっていましたので、一つ一つの尋問にて丁寧に答え誤解を解きました。すると突然刑事の一人から“ところでウルグアイの女性と日本の女性はどちらが好きか?”聞かれました。思わず本音から(本当です)“もちろんウルグアイの女性だ“と答えると、場が一気に盛り上がり、女性観に対するホットな論戦になりました。5人の刑事は皆日本女性ファンです。結果的に”尋問“の時間より日本女性vsウルグアイ女性の論戦に多くの時間がさかれ、最後は”Amigo, Buena suerte, hasta la vista!!(友人よ、元気でまた会おうぜ!)と警察署の入り口まで5人の刑事に笑顔で送られました。終わってみると、本当に昔からの”友達“だったような感じがしました。

ボリビアのチチカカ湖の畔コパカバーナでは、こんな経験もしました。日本女性の人権に関する“5カ国国際会議”です。たまたまレストランで知合ったバックパッカーのノルウェー人、フランス人、アルゼンチン人、イタリア人と私たち2人の日本人と間で日本女性の人権について激論になりました。”日本の女性には自由が無い!“、”日本の男性は横暴だ!“とか。運悪く、参加していたイタリア人女性がたまたま女性解放の活動家で、4カ国連合軍は”日本女性解放“で一気にボルテージが上がりました。我々もスペイン語で”日本の歴史、文化、価値観もろくに知らず、自身の価値観のみに基づいた一方的な先入観はナンセンスだ!“などと必死に反論しましたが、防戦一方でした。”相手の価値観、カルチャー、民族観等を良く知らずに、自身の”常識“だけで物事を判断する事は決してしてはならない”。その時強く感じました。この思いは今でも変わりません。

 


ボリビアのチチカカ湖畔コパカバーナの街にてイタリア人女性解放活動家達と
(著者は右から二人目。1979年11月撮影)

4)海外での初めての仕事
大学を卒業して東京丸一商事(後に豊田通商へ吸収合併)という中堅商社に入社すると、学生時代の海外経験を買われ、入社の翌月にいきなりサーモンの洋上買い付けオペレーション補佐としてアラスカに出張する事になりました。仕事はアメリカ側事業パートナーが操業するアラスカ沖の加工船に乗り込み、パートナーが漁師から洋上で買い付け、加工したサーモンを船上で検品・検収し、東京へ向かう冷凍船へ洋上で積み込みを完了させる事でした。この間船上で約一か月半。魚屋の店頭でしかサーモンを見たことがない私でしたが、見様見真似で時には“加工指導”も行いました。サーモンは豊漁で、船上加工作業も24時間体制でしたので、100人を超える若いアメリカ人作業員と一緒に現場で仕事をすることはとても刺激になりました。加工方法にしても検収結果にしてもしばしばアメリカ人作業員から“なんでダメなんだ?”と聞かれました。答えもロジックがしっかりしていないと相手も納得してくれません。この時に Why – Becauseの考え方の大事さが強く心に刻まれました。ちなみにオペレーション自体はアリューシャン列島先まで加工船を移動させ、洋上で約600トンの加工済みサーモンを東京行の冷凍船に積み込み無事完了しましたが、このシーズンはサーモンの相場が暴落し、会社は大きな痛手を被りました。

 

アラスカサーモン加工船のイメージ写真
出所:Maruha Nichiro サーモンミュージアム“鮭と環境”

5)シンガポールでの就労体験から学んだクロスカルチャーとの付き合い方
Philips Japan に勤務していた頃、本社から日本に出張して来る経営幹部の多くがPh D, MBAの取得者だったので、グローバルビジネスでやりがいのある仕事をするためにはMBAは必須と考え、会社に2年間の教育休職を申請し、アメリカオレゴン大学でMBAにチャレンジしました。四苦八苦の末何とか修了すると、Philips SingaporeからProduct Marketing Manger職のオファーがあり、この仕事をきっかけにシンガポールで足掛け約17年仕事をすることになりました。この間、他に独Siemens、インド系IT企業、米電子部品メーカー、現在も務めるシンガポールEMSメーカーで日本市場への進出、市場開拓推進の役割を担う一方、日系LED照明メーカーC社では海外事業の拡大、国際化に取り組み、クロスカルチャー環境にどっぷり浸かった人生を過しました。
(1)Siemensシンガポールでの日本進出事業の推進:
Siemensでの仕事は、電子生産システム事業(SMT:Surface Mount Technology – 表面実装システム)の日本進出とその市場開拓の推進でした。Siemens自体は当時でも日本で既に100年以上の事業実績がありましたが、SMT事業の進出は初めての経験でした。一方、Siemens電子生産システム事業は当時世界No.2のシェアを有しながら、世界の日系市場(世界市場の約15%:650億円)への販売実績はほとんど無く、“日本進出5年以内に国内シェア5-10%獲得し、シナジーを日系海外顧客市場にも広げ世界シェアNo.1奪取を目指す”との戦略目標を掲げ、日本市場に参入する事になりました。

 

Siemens SMT (表面実装システム)
出所:ASM www Placement solution

SiemensのチャレンジはSiemens製SMTの日本での認知度はほぼ皆無で、潜在顧客の99%はPanasonic, 富士機械等高い技術力を有する日系競合他社の日本製SMTを長年使用し、海外メーカーSMTはアフターサービス面でのリスクがあるとの偏見をもち、またSiemens製SMTは他社製品と比較し1台4,000万円以上と高額な市場環境の中で、どうやって上記の戦略目標を達成するかという事でした。結果的に、この日本市場進出プロジェクトは2年目で、NEC,富士通、三菱電機、デンソー等の新規日系顧客からの受注を勝ち取り、年間売上23億円(国内市場ハイエンド製品セグメントシェア5%)を実現し、当初の目標を達成する事ができました。苦労の末最初の1台を富士通テン中津川工場に納入した時はとても興奮しました。
ドイツのSiemens電子生産システム事業本部からの指令を受け、一人で始めたこの日本市場進出プロジェクトですが、新たに立ち上げた東京事業所に営業、技術、サービスエンジニア等7名、アジアRHQ(シンガポール)にSMT装置オペレーション指導員、マーケティング担当、ソフトウエアエンジニア3名を新たに採用し、加えてドイツ本部・アジアRHQに日本事業専任製品開発技術者等3名を得て、総勢14名でスタートする事になりました。シンガポール人、中国人、韓国人、ドイツ人、日本人の多国籍プロジェクトチームです。国籍、人種、価値観が異なるメンバー構成でしたが、何とかチーム一丸となってそのミッションを達成する事が出来たのは人材活用の観点からは以下の要素が大きかったと思います。

分かり易い論理に基づいた目標の提示と共有(士気高まるプロジェクト参加への”わくわく感“)

世界No.1のマーケットシェアを目指す。
そのために世界市場の約15%を占める日系SMTユーザーの戦略的攻略が不可欠 ⇒ だから日本市場へ進出する。

具体的かつ実効可能な目標達成のための方法論とその実践(難しそうだが、これなら何とかできそうという納得感)

市場・顧客セグメントの徹底した分析と進出計画の精査、実行。
選択と集中の投資(トレーニングセンター設立、人材、主要展示会への大型出展)

オープンなコミュニケーション(参加・当事者意識の高まり)

R&D等高度な技術的協議はドイツ本社と直接実施。事業部最高幹部を含めたあらゆる関係者とのオープンな議論。
リーダーの強い意気込みと魂の伝授(リーダーが自ら現場にどっぷりつかり、率先して問題解決を実践)

自ら人材集めに奔走。プレーイングマネージャーとして営業の最前線へ。

成功体験を皆で分かち合う(達成感の感動を皆で共有し、ビールで乾杯)

本プロジェクトは2001年度Siemens Top+ Awardのベスト10にノミネートされる。

 

Siemens電子生産システム事業部経営幹部と日本進出プロジェクトチーム(後列左から4番目が著者)
出所:Dempa AEI 2001年2月号(表紙)

(2)日系LED照明メーカーC社現地法人での突然の大量人材離脱に四苦八苦:
当時はまだ中小企業の規模だった日系LED照明メーカーC社のシンガポール子会社(現地の独資企業を買収し子会社化を実施)の創業者兼代表者の退任を機に16名の現地メンバーの内6名(代表者、営業ディレクター計2名含む)のキーメンバーが相次いで退社し、業務に大きな支障が生じました。C社のシンガポール子会社は、小規模ながら現地でLED照明設計、組立も行っていましたので、技術者を含む6人の離脱の影響は計り知れないものでした。
その後現地子会社の代表として赴任した私は、現地従業員の離職率を低く抑えるために四苦八苦しましたが、結果的に次のような方策が有効でした。ポイントは従業員がフェアーに扱われているとの認識の向上、自主性の尊重と一体感醸成の強化です。その後離職率が激減し、達成感もひとしおでした。

従業員とのコミュニケーション向上:現地の代表者が半年毎に直接従業員と対話する。従業員からのフィードバックをまとめて公表し、会社として改善すべきことは改善する。

公平で分り易い人事評価制度の導入:ボーナスについてはKPIシステムを採用し、半期毎にグループ毎のKPI(公開)、個人のKPI(非公開)を設定し、目標を数値化する。ボーナスの計算方法を明確にし、グループ毎のKPI結果、会社の業績(売上、売上総利益、営業利益)と共に全従業員と共有する。最終的な個人へのボーナスはグループKPI評価、個人のKPI評価、会社の業績、現地のボーナス動向(現地の日本商工会議所等で入手可能)を考慮し決定する。

CIの強化:海外子会社独自のHPの立上げ、新規事業の展示会出展に全員が参加する。

従業員交流イベントの実施:従業員主導でプロジェクトグループを作り、年に一回社内旅行等を実施する。会社は予算だけ提示し、企画立案、運営は従業員に任せる。

上記2つの経験に代表される私のシンガポールクロスカルチャー環境でのチャレンジですが、一言で言えば“大変だけど、やりがいがある。上手くいった時の達成感(感動)が大きかった”です。

6)終わりに
クロスカルチャー環境では、時に毎日が新しい発見・経験です。35年を超えるクロスカルチャー環境での業務経験では、国籍、民族、宗教、価値観の異なる多くの仲間と一緒に仕事をしてきました。”何でそうなの!?“は日常茶飯事で、ベクトルを合わせて一緒にやっていくのは大変ですが、新しい発見・経験は同時に刺激になります。一方で、日本的な”行間のニュアンスを読む“とか”“事前の根回しをしっかりやる”等はそれほど必要でないケースも多く、その分気楽です。また、目標達成を皆で祝って一体感が高められる事は万国共通です。海外でも“飲みにケーション”は大変有効です。
私の場合は、子供の頃に大型外航客船の船長になって世界を”体感“したいという思いから始まり、学生時代にネパール、インドで初めて世界を体験、感動して以来、その後の人生で公私ともに地球の面白さを実際に手に取って堪能してきました。仕事も全て上手くいったわけではありませんが、クロスカルチャー環境で自身の思いを実現する事の喜びを数多く体験しています。その結果、実体験に基づく“好きこそ物の上手なれ”の発想がグローバルビジネスを成功に導くための強力なエッセンスであると信じるに至りました。
そのような観点から、中小企業の海外進出にあたってはリスクマネージメントは大事ですが、事前調査、分析に時間をかけすぎるのは良くないのではないかと考えています。経営者は直感に従い(自身の実体験から世界が好きになり)、時折失敗しながら、軌道修正し、思いを実現させるのが良いかと思います。リスクマネージメントの観点からは小さく始めて大きく育てるアプローチは大事ですが。