「軽薄短小」な化学産業
三多摩支部国際部
金子保宏
化学品産業とは、重厚長大大規模装置産業の典型である。エチレンプラントなどは数千億円の投資で年数100万トンを産出し、できた製品やそのための原料は十万トン単位の大型タンカーで搬入搬出されていく。投資もオペレーションも巨大企業の牙城である。
だがこの業界にも「軽薄短小化」の流れが現れている。従来の石油化学ベースの高温高圧反応ではなく、バイオ技術を基盤とした常温常圧反応プロセスの商業化である。化学プラントが巨大化するのは原子力発電と同じで反応条件が日常の環境とかけ離れているからで、それゆえ高温高圧を安定的に閉じ込めるための規模の経済が重要となるからである。然しながら常温常圧が可能となれば競争条件がガラリと変わってくる。一例を、筆者の元勤務先で扱っているコモディティ化学品「アクリルアミド」を例に挙げ公知の範囲で紹介したい。
「アクリルアミド」の性質や用途はネットでも簡単に検索できるのでここでは詳述しないが、従来の高温高圧反応器での合成ではなく、バイオ法という常温常圧での合成が実用化している。これはバイオ触媒という見た目も大きさも芋羊羹のようなブロックに原料のアクリロニトリルを通すことで常温常圧でのアクリルアミド合成が商業的に可能になるもので。その結果、最小経済規模10万トン/年単位だったものが5千トン/年程度になった。つまり、自己完結した装置一式を大型トレーラーにでも搭載して、とりあえず原料と用役のある所へ自在に移動して即現地生産販売できる。化学品の生産が豪壮広大なレストランではなく「屋台のラーメン屋」で可能になったのである。この事の持つ意味を以下に考察したい。
① 初期投資額の分散によるリスク低減
従来化学品プラント新規建設の投資意思決定は、社運を賭して数百億円を投ずるか、投資を見送って潜在マーケットを諦めるかの二者択一であった。前者であれば需要が急減すれば膨大な借入金と創業赤字に苦しむことになり、後者であれば販売機会損失で競合他社に市場を奪われる。
これが「屋台のラーメン」であれば、屋台ごとの少額の投資で市場環境を見ながら段階的に生産力を積み上げられるのでリスクの時間分散ができることになる。
② きめ細かいマーケット立地による先行者利潤の確保
例えばベトナムに年5千トン程度の製品の需要があれば、とりあえず屋台を引っ張って現地に行けば良い。これにより輸送の船繰りや通関に煩わされずに現地顧客の毎日時々刻々変動するような需要に即時対応できることで顧客の信頼を獲得し自社ブランドを確立していける。
③ フレキシビリティ確保による対外交渉力の強化
大規模プラントは一旦建設したらもはやどこにも動かせない。投じた数百億円のキャッシュはその地でひたすら回収を目指すしかない。現地の政治情勢等が当初の思惑と異なって操業に不利となってもじっと我慢で商売を続けるしかない。そのてん屋台ならいつでも撤収できる。仮に現地開発区や政府なりが途中で理不尽な「みかじめ料」を要求してきたり、今回のロシアウクライナ戦で実感したように想定外の政変が起きたらさっさと屋台を引っ張って帰ってくれば良い。つまり撤退損失は殆どゼロなのだから、膨大なサンクコスト(埋没原価)を気にする必要もない。逆にいつでもそうできることが現地開発区や政府への強力な交渉力になる。交渉に巨大企業のような圧倒的資本力レピュテションや日本政府のバックアップも不要である。
更に、上記のトレンドを補強するものとして最近の5Gをはじめとする情報通信技術の進展がある。つまり4つ目のメリットは、
④ 日本からの完全リモートオペレーション
化学品工場における人間の作業は基本的には反応中のパラメータ(温度や圧力やPH等)の監視制御である。これらの作業のために従業員が現場反応炉に張り付いている必要はなく、パラメータは全てエアコンのきいた工務室内のコンピュータ計器で監視しているのだから、その作業実態は工務室と反応炉の物理的距離が百メートルだろうと5千キロだろうと同じである。情報通信技術の発達はそれをさらに高度かつ完璧にできる。
また常温常圧であれば、急な停電等のアクシデントがあっても反応暴走事故のリスクもなく、あらかじめ決めた手順通りに反応を止めれば良い。つまり、年産5千トンの屋台プラントをオペレーションするためには、どうしても人の手が必要な一部の作業やハプニングに備えてある程度の訓練をした人間ひとりによる「ワンオペ」で可能であり、より包括的且つ高度な指示は適宜日本からの連絡で足りる。
ここまで書いて来てふと気が付いた。
最小経済規模がトレーラー並みになれば、あとの上記特性はむしろ中堅中小企業が得意とするところである。
またバイオ法とは要するに日本の醤油会社や醸造所がやってきたことであるから、日本国内には活用しきれない技術やノウハウが眠っているはずである。それらの応用で更なる化学品の「屋台化」ができれば、重厚長大化学産業における中堅中小企業のグローバルな活躍の余地が広がるのではなかろうか?
独自のバイオ技術で化学品を製造するベンチャー企業が屋台を引っ張って世界を席巻できれば面白いことになると夢想している次第である。
以上